紅王子と侍女姫  113

 

 

膨大な量の書簡の仕分けが済むと、それらを一度渡してくると、カイトが王城に向かうことになった。たくさんの書簡をどう運んだのか見送る暇もなく出立され、のちにザシャから書簡は魔道具を使ったと説明された。見送ることが出来ずに申し訳ないと項垂れたディアナを双子が慰めてくれる。

ザシャは今回の騒動で疲労困憊の両親のために薬草を煎じながら、王城から新たな指示が来るまでは決して一人で城外に出ないよう繰り返し説き、ディアナは深く頷いた。王都城下街で目にしたエディの表情が脳裏に浮かび、記憶にない過去の行動を改めて謝罪すると、エディはケラケラと笑ってくれた。  

「気にしないでいいから。あの時は仕方がないよ。俺でも、きっと走っていたし」 

「もう二度と勝手に動かないよう気を付けます」 

「勝手をしているのはギルバード殿下の方だろう? ねえ、それよりディアナ嬢に訊きたいんだけどさ、ちょくちょく会いに来ていた殿下のこと、どう思ってた?」 

鳥小屋の中で卵を拾い集めてくれるオウエンからの問いに、ディアナは眉尻を下げる。

解毒剤により消えたと思われた記憶は一時的に失っているだけの可能性が高く、時間の経過と共に元に戻ると言われた。だが、まだ何ひとつ思い出せずにいる。王子を何度もアラントルに足を運ばせた自分が不甲斐ないと、ディアナは項垂れた。 

 

「・・・少しも思い出すことが出来ず、申し訳ないと」 

「そうじゃなくってさ。今のディアナ嬢は、今の殿下を、どう思っているのかなぁって」 

「今の、殿下・・・?」 

そうそうと頷き小屋から出てくるオウエンは、エディが持つ籠に卵を入れると、キラキラした目を向けてくる。探るように見つめられ、ディアナは目を瞬いた。エディも口端を持ち上げ、期待感溢れる表情でディアナを見る。 

「魔法が解けて、アラントルに戻って来て、穏やかに過ごしたいと思っているディアナ嬢の許に、殿下は週一で通っていたでしょ? きっと面倒事が片付いたらまた来るよ? そんな殿下を、今のディアナ嬢は正直、どう思っているの?」

「・・・・」

 

王子は大国エルドイド国の唯一の王太子であり、王位継承権を持ち、未来の国王となる尊き御方。本来なら田舎領主の末娘などが会う機会を得ることは一生ないはずで、十年前に王城の庭園で会ったというが、今の自分はそれらを何も覚えていない。王子から何か言いたげな視線を感じるたびに申し訳ないと項垂れそうになる。

「殿下がディアナ嬢に会いに来たらさ、アラントルに面倒事を持ち込みやがってって怒る? それとも何も気にしてませんって、微笑んであげちゃう?」 

「わかりませんが・・・詰る、はしないです」 

王子の顔を見た途端、また来てくれたと胸を撫で下ろす自分が脳裏に浮かぶ。そして王子が何をおっしゃるか真剣に耳を聳てるだろう。何を言われても、それがいいことでも悪いことでも、真剣に聞くだろう。

だけど、また来るのだろうか。殿下のおっしゃった『妃』とは本当に――――。

 

「問い合わせも昨日から来ないし、そろそろ落ち着いたかなぁ」 

「まー、あとは殿下次第だろうね。さて、この後、ディアナ嬢はどうする?」 

二人ののんびりした口調に、先ほどの話は終わったと解かる。ほっと胸を撫で下ろしたディアナは、卵が入った籠を見て何を作ろうかと思案した。 

「プディングを・・・作りましょうか。頂いた果物をたくさん乗せて」

「賛成っ! すぐに作ろう、大きいのを作ろう!」

 

瑠璃宮が管轄するという温室で作られた様々な季節の果物をたくさん乗せて、いつもより豪華なプディングを作ったら、王子はとても喜んで下さるだろう。目を大きく見開き、スプーンを振り回すように突き刺しながら豪快に食べる姿が想像出来る。

ディアナが緩んだ口を押えて顔を上げると、黒髪の人物が目の前に浮かび、息が止まる。 

――――いるはずがない。もう、ここへは、来るはずがない。 

そう思うのに黒髪の人物は黒曜石のような双眸を柔らかに象り、ディアナに手を差し伸べる。笑みを浮かべる唇が開き、そこから零れるのは胸が跳ね踊るような言葉。その言葉を、もう一度聞きたかったと頬を染めて手を重ねようとする自分の姿に、ディアナは首を振り顔を歪めた。

どうしてそんな幻が見えるのか、それは自分の願望なのか。

高貴な御方だから、身分が違うと言いながら、自分は不遜な思いを懐いていたのだろうか。王子が望んでいる過去の記憶を何ひとつ思い出せずにいるのに、その努力も出来ずにいるのに。

 

「ディアナ嬢、ゆっくり座って」

「大丈夫? 深呼吸してね」 

ぼやけた視界が捉えたのは濃茶色の髪と瞳。

それがエディとオウエンの髪と目だと気付き、ディアナは二人に支えられながら石段に腰を下ろした。胸苦しさを覚えて大きく息を吐き、冷たい空気を胸いっぱい吸い込む。また意識が飛んでいたらしい。いつもはすぐに消えてしまう幻のような映像がいつまでも目の前に揺らぎ続けるのを見て、ディアナは眉を顰めた。幻は水の器に映ったように揺らぎながら、それでもそこにいるようで胸が高鳴る。手を伸ばしたら消えてしまいようで、ディアナは息を詰めて見つめ続けた。

深呼吸を繰り返す内に頭がはっきりしてきて、やがて黒髪黒瞳の柔らかな笑みを浮かべる人物は、ゆっくりと消えていった。残像を追うように目を閉じると鼻の奥が熱く感じ、堪えようと唇を噛む。

感じた痛みに、どうして何度も何度も、もう王子は来ないと自分に言い聞かせようとしたのか理解した。そう思っていないと寂しいからだ。

王子から言われた『好き』の言葉が胸に深く刻まれていて、そんなことは有り得ないと首を振りながら、思い出しても今のままでいいと思いながら、深い場所ではもう一度言って欲しいと望んでいると自覚してしまった。寂しいと思うのは――――殿下を恋しく思っているからだ。

だからこんなにも寂しい。

だから心が、感情が・・・こんなにも揺れると、知ってしまった。

  

 

王宮で対策が講じられたようですとザシャが教えてくれた日から、アラントルに書簡が届けられることはなくなった。月が替わり、既にひと月近く滞在している双子騎士は王子が顔を出すまでは居てくれるという。本来の仕事を休ませて申し訳ないと伝えると、ザシャも双子も大笑いで腹を抱えた。 

「これも仕事だし、気にすることなんかないよぉ」

「そうそう。ディアナ嬢んとこのご飯は美味しいから、まったく問題ないよ」 

「だけどディアナ嬢は暇だよね。城の外に出られないんだから」 

「いえ、もともと町の図書館や製菓の材料を買いに行くくらいでしたから問題ありません」 

ザシャが眉を下げて、「もうしばらくの御辛抱です」と頭を下げる。

 

「アラントルに届けられた書簡ひとつひとつに殿下がしっかりと目を通し、それぞれの書簡内容を吟味した上で殿下自らがひとつひとつに返答の書簡をお書きになるそうです。もちろん国王陛下、宰相殿、殿下付き侍従長もお目を通すでしょう。思った以上に大きな反響となったことに殿下は深く反省し、現在は王宮の第三執務室に籠られておられるそうです。返答した書簡に対する相手側の反応を確かめてから、今後の方針を検討するつもりだと、カイトより報告が届いております」

 

王子がいくつの国に招待され、いくつの国で未来の妃発言をしたかの詳細は知らないが、噂はあっという間に大陸全土に知れ渡ったようで、富国強国であるエルドイド国王太子妃の座を狙っていた数多の王族貴族からの問い合わせに、王城は蜂の巣を突いたようだとザシャが話す。

国内の主だった貴族には見合い話を持ち込まないように予め王子の意向を伝えていたが、他国で発せられた王子の言葉を知ると、それは正式に決まったことなのか、未来の妃は一体誰なのかと問い合わせが多数寄せられ騒動がいっそう拡大していると言う。年明け早々から王城は大騒ぎで、届けられた書簡に妙な呪いなど掛けられてはいないかを調べるため、多くの魔法導師が駆り出されているそうだ。

 

「どのような笑みを浮かべてカリーナが執務室に通っているか、それを想像すると楽しいですねぇ」

ザシャが肩を揺らすのを目にして、双子が互いの顔を見て蒼褪める。

その執務室にはもちろんレオンもいるだろう。そこへ冷笑を浮かべたカリーナが登場する。国王も宰相も顔を出すだろう。ただ顔を出すだけ、なんてことはなく、ひと言ふた言・・・・いや、時間が許す限り滞在し、ネチネチ愚痴を零して王子弄りを楽しむに決まっている。

それはなんて恐ろしい空間だろうと、双子は手を取り合って震えた。

 

 

五日後、王城に戻っていたカイトが大きな箱を持って、再びアラントルに現れた。 

「今回の件に関して詫びの品だと、国王陛下より仰せつかって参りました」 

領主が恭しく受け取り恐る恐る箱を開けると、きれいな反物が幾種類も詰められていた。カーラと母親が感嘆の声を上げて手に取ると、反物の下からは目にも眩しい宝飾が現れる。 

「ひぃっ!」 

腰を抜かしそうな領主を支えたロンも箱の中身に目を見開き、カーラと母親とディアナは口を開いたまま固まった。呆けた顔で皆が互いの顔を見つめ合い、そろりとカイトを窺う。注目を浴びたカイトは笑みを浮かべて、「国王陛下よりの詫びの品です」と繰り返した。

いっそう蒼褪めた領主が首を横に振る。 

「あ、あのっ、このような多大な御心遣いは、ひっ、必要御座いません」 

「国王陛下よりの気持ちを無下になさることなく、どうか快くお受け取り下さいませ。アラントル領地を騒がせた詫びがしたいと、国王陛下自らが御選びになった品で御座いますから」 

「そっ、で・・・っ。・・・・有りがたく、頂戴致します」 

否を言わせぬ雰囲気を醸し出すカイトに、領主は顔色をなくして強張った笑みを浮かべた。

鷹揚に頷いたカイトはディアナに向き直り、袖から一通の手紙を取り出す。 

「ディアナ嬢、こちらは殿下からお預かりした手紙で御座います。ちなみに、ちょっとした魔法がかけられておりますので、おひとりでお読み下さいとのことです」

「は、はい。ありがとう御座います」

  

受け取ったディアナは戸惑いながら部屋に戻り、しばらくの間、手紙を眺めた。

自分の気持ちを自覚してからは、ギルバード王子がまたアラントルに来たらどうなるのだろうと何度も考えた。実際は何も想像出来ずに悩むばかりで、考えはまとまらずに日々過ごしていた。

受け取った手紙には何が書かれているのか。もうアラントルには来ないと、それだけが端的に書かれているかも知れない。そう思った方がいいと覚悟したディアナは、大きく息を吐いてから封を開いた。 

開けた途端、鼻を擽る花の甘い香りに目を瞠る。

遅れて、これが言っていた魔法かと驚いた。しかも匂いだけではなく、封から飛び出した桃色の花びらが宙を舞い始め、手や肩に触れると小さな鈴の音と共に消えていく。まるで夢のように綺麗で、幻のように切ない。全ての花びらが消えるまで見つめ続けてから、ディアナはゆっくり手紙を取り出した 

 

『愛しい愛しいディアナへ。

アラントルに多大な迷惑を掛けたと知り、大変申し訳ないと深く反省している。本当に申し訳ない。だが自分が言った言葉に嘘偽りはなく、放った言葉を実行するためにもディアナの許へ馳せ参じたい気持ちでいっぱいだ。俺はディアナが好きで、ディアナを妃にしたい気持ちは変わらない。

だが今のディアナは記憶を失い、静養を必要としている。直ぐにでも会いたいが、いま俺がアラントルに向かうと再び騒動が起きる可能性があるから自重しろと言われ、しばらくは逢いに行くことが叶わない。何度も書くが、迷惑を掛けたことは本当に悪かったと反省している。だが、断っても断っても持ち込まれる見合い話を一蹴することが出来たと、俺は心から満足している。

しばらく逢えないが、どうか俺を忘れずに待っていて欲しい。ディアナに何度でも希う。俺と結婚して、俺の妃になって欲しいと。  ギルバード・グレイ・エルドイド』

 

読み終えた手紙から目を離せずにいると耳元で濡れた音がして、驚いて横を向く。だけど、もちろん誰かがいる訳もない。熱を持ったような耳朶を押さえて正面を向き、ディアナは目を瞠った。

「・・・殿下?」 

鏡台の鏡に映るのはベッドに腰掛けたディアナと、その背後で笑みを浮かべるギルバード王子の姿。

困ったような照れくさそうな表情の王子がディアナの耳に顔を近付け、まるでキスするような仕草をすると同時にまた濡れた音が聞こえ、ディアナの顔は首まで真っ赤になった。

耳を押さえて振り向くが、やはり誰の姿もない。急いで鏡を見るが、そこにもう王子の姿はなかった。 

これも魔法なのだろうか。それとも自分の願望が鏡に映し出されたのか。 

今度は乾いた音がして視線を落とした。いつのまに握り締めてしまったのか、手の内には少し皺が出来た手紙があり、広げると『結婚』の文字が胸を打つ。じっと見つめる内に字面が滲み始め、ディアナは泣きそうな顔で唇を噛んだ。 

王子はディアナのどこに惹かれたのだろうか。

王都には見目良く教養高い多くの貴族息女が多くいる。王族として他国の王女とも交流があっただろう。それなのにディアナがいいと、ディアナを妃に望むと言ってくれるのは何故なのか。自分に、王子が希うような特別な何かがあるのだろうか。王子が幸せだと感じて下さるような何かが、あるのだろうか。 

――――あって欲しいと願いながら、ディアナは手紙を胸に抱いた。

 

 

  

王子から手紙が届けられてから一週間が過ぎ、どこからも早馬が来ないことを確認した二人の魔法導師は一旦王城に戻ることになった。

「このまま春まで殿下が来なきゃいいと思うのは、仕方ないよねぇ」

「それに警護だけじゃなく手伝いもしているんだから、俺たち偉いよねぇ」

 

万が一を考えてアラントルに残留することになった双子騎士は、今日も警護と称して城内での仕事を手伝い、その報酬として今日もディアナ手作りの焼き菓子を堪能していた。

天気がいい日は裏庭でロンと剣の鍛錬をすることもある。双子は利き手を封じてロンと手合わせするだけでなく、時に二対一での鍛錬も行う。手が空いた侍従はそれを見物するのを楽しみ、侍女たちは誰が双子騎士にタオルを渡すかで毎回揉めているそうだ。

王宮騎士団員であり貴族でもある双子は、雪が融けたら畑仕事もすると楽しそうに笑う。

 

「それは、春までここでの食事とワインを堪能したい、ということですね?」 

片眉を持ち上げたロンがチェスの駒を置くと、エディが眉間に皺を刻み、「そこにルーク!?」と腕を組んだまま呻いた。オウエンが「ロンの言う通りだよ」と頷くと、食堂にいたみんなが微苦笑を漏らす。

双子騎士は交代で町に下り、いつの間にか町の人たちと交流を持ち、気さくに声を掛け合う仲になっていた。気の荒い漁師が双子と声を上げて笑い合い、王都の漁港での様子や取れる魚の種類について話しながら酒を酌み交わすこともあると聞き、ディアナは驚いた。

城に肉を届けに来る猟師や業者とも仲良くなり、それも交代で猟師と一緒に狩りに出ることもある。領地内に他者の侵入がないかを調べるために、一番効率の良い方法を取っていると双子は言う。

 

「アラントルのことは、アラントルの住民が一番知っているからね。それに見慣れない者が現れた時は、町の人の方が、俺たちより早く見つけるだろう?」

「それにめちゃくちゃ強そう。みんな、すげぇ鍛えていて驚いちゃった」

「気が荒い者が多いですからね。でもアラントルの者たちは、みな優しいですよ」

ロンの笑みに双子は頷き、「アラントルは料理も美味いし!」と笑う。 

「前に視察来た時も言ったけど、アラントルの料理もワインも、本当に美味しいんだよな」

「ディアナ嬢の作る菓子も食べ放題だし、何より殿下に分けなくてもいいし!」 

執事のラウルが目を細くして「お二人が王都に戻りましても、アラントルのワインをお送りしますので、思い出しながらお飲み下さい」と紅茶のおかわりを注いだ。双子は目を輝かせて頷き、その様子にみんなの笑い声が大きくなった。 

  

 

二月も下旬となると温かい日差しに雪が融け、春めいた風が頬を撫で始める。

空を見上げた途端に白昼夢のような光景が広がり、ディアナはその場から動けなくなった。

王城の庭園だろうか。薔薇が咲き誇る広い庭園で、何故か汗だくになって水を運んでいる自分がいる。庭師らしき人たちと大きな窯に水を入れ、熱い熱いと笑い合っている。誰かに名を呼ばれ、次にやるべきことを思い出しディアナは走り出す。次の場面は高い天井まで本だらけの部屋で、そこで魔法導師長であるローヴに対面した。柔らかな笑みに迎えられたところで全体が暗くなる。 

 

「―――ディアナ嬢、お水を持って来たよ」 

「あ、ありがとう御座います。・・・御面倒をお掛けしました」 

眉尻を下げたエディが背を支えながら座らせてくれる。また意識が飛んでいたようだ。 

「今日は、庭園で働く自分が見えました」 

「それって、ローズオイルの抽出作業かな? ディアナ嬢はほんとうに働き者だから。他に思い出したことはない?」 

「ローヴ様とたくさんの本がある場所に行きました」 

「そこは東宮の図書室だろうね。妃になるために勉強するって、ディアナ嬢は頑張っていたから」 

 

目を丸くしたディアナに、エディが楽しげに笑う。

以前は思い出せなかったことが口からするりと零れるのにも慣れてきた。最近は急な眩暈と同時に過去らしき光景がよみがえり、そのたびにエディやオウエンに見たままを伝え、本当にあったことなのかを照らし合わせていた。

覚えがない過去での自分を知るたびに、くすぐったいような思いに浸る。王子が好きだと自覚してから、過去を思い出すのが少し楽しみだと思えるようになっていた。同時に思い出してしまえば、もう逃げられないと、訳の分からない焦燥感にも襲われる。 

ギルバード王子が来たら現状は何か変わるのだろうか。

だけど王子は現れない。アラントルに集められた書簡を精査し、返事を出し、その後の動向を調べているという。王子からの手紙は一通だけで、その後は魔法導師も顔を出さず、穏やかな日常が繰り返されている。そうなると不思議なことに何か物足りないような胸騒ぎを覚え、自分だけが穏やかな日常を過ごしていいのかと思えてしまう。 

二、三日に一度思い出す過去に対し、エディやオウエンはそれが本当にあったことだと確認させてくれるだけで、率先しては教えてくれない。自然に思い出すのが一番だとローヴに言われているという。

思い出す記憶の中に何故か王子の姿はなく、あっても黒髪や黒瞳が朧気に過ぎるだけ。それがディアナの焦燥感を余計に煽るようで、気付けば手が止まりぼうっと佇む時がある。 

あれだけ思い出さなくてもいいと思っていたのに、今は少しでも王子に繋がる過去を思い出したいと切望している。並行して、本当に自分が王太子妃として王子の傍にいていいものかと悩み、そう考える自分に羞恥を覚える。

 

「来月の中頃から春祭りの用意が始まるんだろう?」 

「ええ、とても賑やかで楽しい祭りですので、エディ様にもオウエン様にも楽しんで頂けると思います。露店も多く出ますし、ワインの飲み放題もあります」 

「それは楽しみだ!」 

盛大な笑みを零すエディに苦笑すると、もう一度水を飲むように言われた。 

毎年四月初めの週末に行われる春祭り。無事に冬を越したことを喜び、春の訪れを寿ぐ祭りで、リグニス城から港までの道に領地の子供たちが冬中作っていた花飾りを木々に飾り付ける。若い女性は温室で育てた花々を髪に飾り美しく装い、城近くの広場では領地自慢のワインや肉料理を振る舞う露店が出て、領民だけでなく他領地から来た人々と共に盛り上がる。夜になるとたくさんのランプを灯し、その下で一晩中踊ったり歌ったりする賑やかな祭りだ。 

 

「そういう祭りの時期だけを狙っての領地視察があれば、もっといいのに」 

それは視察というのだろうかとディアナが首を傾げた時、オウエンが猟師と共に戻って来た。

今日は大物を仕留めたと猪を見せるのに、エディが駆け寄り歓声を上げた。雪解け間近の山に入っていたオウエンは泥だらけで、急ぎ湯の用意をしようと踵を返した時、ディアナは再び眩暈を覚えた。 

急ぎしゃがみ込もうとして失敗する。

裏門が横に見えた時には、ああ倒れるのだとギュッと瞑った瞼の裏に緑の蔓が見えた。

どこまでも続く山並みと淡い青紫の空。朝日が昇るところなのだろう、山々が色濃く見え始めると同時に急降下して大きな岩に着地する。そこで今まで空にいたと分かり、どうしてと顔を上げた。逆光でよく見えないが、誰かに抱かれているようだ。胸が高鳴り、急に目の奥が熱くなる。この腕に何度も抱き締められた、何度も助けられたと唇が震え、嗚咽が零れそうになった。

 

「ディアナ嬢っ!」 

「・・・あ? あ・・・大丈夫、です」 

目を開けると、同じ顔が二つあった。一日に二度も意識を飛ばすのは珍しい。心配げな顔に笑みを返し、ディアナは今見えた風景を口にした。 

「空、を・・・飛んでました。どこかの・・・山の上?」 

「ああ、それはトリスト山に攫われた時のことだね。殿下が助けに行ったって聞いたよ」 

「では、あれは・・・」 

ディアナを抱き締めていたのは王子なのだろうか。必死に逆光で見えない顔を思い出そうとするが、どうやっても思い出せない。蘇る記憶の端々に王子らしき腕や背が過ぎる時があるが、それが王子なのかわからないままだ。いま王子に会ったら、どんな感情に揺さぶられるのだろう。 

双子に支えられながら部屋に戻り、ベッドに横になったディアナは紅潮する頬を押さえながら目を閉じた。今度意識が飛んだら、王子の顔がはっきり見えたらいいのにと願いながら。

 

 

 

 

 

 

 

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